2014年02月07日
超大型のビッグウェ~ブ...元気があれば何でもできる
みなさん長い間ご無沙汰していました。m(_ _)m ペコリ
宮古島から帰ってきたのも束の間、
ハリケーンのような出来事が起こり、瀕死の状態でした。
激しく心が揺さぶられて、沈没...
あんなにclosedな自分を久しぶりに感じました。
ヒドゥンバリー以来です。
心がポキッと折れてしまいました。
クレアヴィジョンなんかやっても役に立たないじゃないか...
とさえ、思ったほどです。(コレ↑、実はよくあることなんですが(笑))
「ブログを更新しなきゃ」と思いつつも、何を書いていいのやら??
何が起こったのかを赤裸々に書く?
そんな傷口に塩をすり込むようなことできませんでした。
それとも、何事もなかったかのように、他の話題を探す?
毎日書く!! と決めたのだから、
これしきの事でヘコタレちゃアカン...とは思いませんでした。(笑)
ヘコタレにヘコタレていました。もぅーヘコタレの10乗くらい。
closedしながらも、自分のopenな部分を感じようと一生懸命でした。
自分にopenになると言うと、ポジティブなイメージだけを持たれる方もいらっしゃると思いますが、そうではありません(少なくとも私はそう思います)。
ここでいうopenになるとは、嬉しい気持ちや楽しい気持ちも、どん底に悲しい気持ちも、寂しさややりきれなさ、怒りであっても、それに対してオープンになる、自分を開くということです。自分を閉じない。つまり、そういう気持ちをしっかり感じるということです。
だから、私にとってのオープニングは大抵いつも とても辛いです。
刺激→samusukara→反応についてお話ししたことがありますが、
サムスカラ
Emotion &Feeling
今回はまさに、私の中のサムスカラが刺激されて起こるリアクションの
渦中にいました。
こういう仕組みがあるとわかっていても、リアクションの渦の真っただ中に
いる時は、頭で理解しても気持ちがなかなかついてきません。
ひたすら「どうか私をオープンにさせてください」と祈るばかりです。
closed とopenってとても似ています。だから自分が今、クロージングしているのか
オープニングしているのかワケがわからなくなることがあります。
例えば失恋したとしますね
「こんな悲しい思いするなら、もう恋なんてしない」
「やっぱり、こうなると思っていた」
「私は結局、誰からも愛されないのよ」
仕事で失敗をして
「私には、やっぱり能力がないんだ」
「自分はダメだ」
「あの時、ああしていれば」
皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。
クロージングはリアクションを感じたままでいることです。
そこで自分を閉じてしまうこと。
そこには少なからず卑屈な窮屈な自分を感じます。
オープニングはクロージングな自分をもっと掘り下げる感覚です。
「もう恋なんてしない」や「あの時、ああしていれば」という気持ちは
それ以上の悲しさや劣等感を感じないようにする、ストッパーです。
「これ以上感じたくない」という防御システムです。
そのストッパーを外すと、純粋に“悲しい”や“寂しい”、“やるせなさ”や“怒り”だけがあります。声をあげて泣き、あまりの憤りに大声をあげることもあるでしょう。自分を否定したりジャッジすることなく、その気持ちをそのまま感じる。それがオープニングです。
不思議なのは“悲しい”や“寂しい”、“やるせなさ”や“怒り”を感じているはずなのに、
そこに温かさを感じたり、 vulnerability(赤ちゃんのような無垢な弱々しさ)を感じ、
自分が広がるのを感じるのです。まさにオープニングです。
そして、リアクションの中にいることを選ぶのか、
そうではない自分を選ぶのか、とてもシンプルです。
しかし、シンプルだからといって簡単とは限りません。
でも、どちらかを自分で選ぶことができるのです。
こう書きながらも、リアクションに飲み込まれそうになる時があります。
ふと、涙で目頭や喉が熱くなることがあります。嗚咽してしまうことがあります。
そういう時はじっとその気持ちを感じています。
「もし、あの時」や「自分なんて」という余計なことは考えずに
ただ、“悲しい気持ち”を感じています。
そして、その悲しい中に温かさやバーナビリティー、自分が広がるのを感じます。
リアクションの中にいる小さい自分を選ぶのではなく
もっと大きい部分の自分を感じています。
心はまるで、今流行のノロウィルスにかかったように消耗してしまいましたが、
身体はいたって元気モリモリです。
アントニオ猪木の
「元気があれば何でもできる」って本当だなって思います。
この言葉が、こんなに胸に染み入るなんて...
皆さん、元気があれば何でもできます。
今年も38日経過
宮古島から帰ってきたのも束の間、
ハリケーンのような出来事が起こり、瀕死の状態でした。
激しく心が揺さぶられて、沈没...
あんなにclosedな自分を久しぶりに感じました。
ヒドゥンバリー以来です。
心がポキッと折れてしまいました。
クレアヴィジョンなんかやっても役に立たないじゃないか...
とさえ、思ったほどです。(コレ↑、実はよくあることなんですが(笑))
「ブログを更新しなきゃ」と思いつつも、何を書いていいのやら??
何が起こったのかを赤裸々に書く?
そんな傷口に塩をすり込むようなことできませんでした。
それとも、何事もなかったかのように、他の話題を探す?
毎日書く!! と決めたのだから、
これしきの事でヘコタレちゃアカン...とは思いませんでした。(笑)
ヘコタレにヘコタレていました。もぅーヘコタレの10乗くらい。
closedしながらも、自分のopenな部分を感じようと一生懸命でした。
自分にopenになると言うと、ポジティブなイメージだけを持たれる方もいらっしゃると思いますが、そうではありません(少なくとも私はそう思います)。
ここでいうopenになるとは、嬉しい気持ちや楽しい気持ちも、どん底に悲しい気持ちも、寂しさややりきれなさ、怒りであっても、それに対してオープンになる、自分を開くということです。自分を閉じない。つまり、そういう気持ちをしっかり感じるということです。
だから、私にとってのオープニングは大抵いつも とても辛いです。
刺激→samusukara→反応についてお話ししたことがありますが、
サムスカラ
Emotion &Feeling
今回はまさに、私の中のサムスカラが刺激されて起こるリアクションの
渦中にいました。
こういう仕組みがあるとわかっていても、リアクションの渦の真っただ中に
いる時は、頭で理解しても気持ちがなかなかついてきません。
ひたすら「どうか私をオープンにさせてください」と祈るばかりです。
closed とopenってとても似ています。だから自分が今、クロージングしているのか
オープニングしているのかワケがわからなくなることがあります。
例えば失恋したとしますね
「こんな悲しい思いするなら、もう恋なんてしない」
「やっぱり、こうなると思っていた」
「私は結局、誰からも愛されないのよ」
仕事で失敗をして
「私には、やっぱり能力がないんだ」
「自分はダメだ」
「あの時、ああしていれば」
皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか。
クロージングはリアクションを感じたままでいることです。
そこで自分を閉じてしまうこと。
そこには少なからず卑屈な窮屈な自分を感じます。
オープニングはクロージングな自分をもっと掘り下げる感覚です。
「もう恋なんてしない」や「あの時、ああしていれば」という気持ちは
それ以上の悲しさや劣等感を感じないようにする、ストッパーです。
「これ以上感じたくない」という防御システムです。
そのストッパーを外すと、純粋に“悲しい”や“寂しい”、“やるせなさ”や“怒り”だけがあります。声をあげて泣き、あまりの憤りに大声をあげることもあるでしょう。自分を否定したりジャッジすることなく、その気持ちをそのまま感じる。それがオープニングです。
不思議なのは“悲しい”や“寂しい”、“やるせなさ”や“怒り”を感じているはずなのに、
そこに温かさを感じたり、 vulnerability(赤ちゃんのような無垢な弱々しさ)を感じ、
自分が広がるのを感じるのです。まさにオープニングです。
そして、リアクションの中にいることを選ぶのか、
そうではない自分を選ぶのか、とてもシンプルです。
しかし、シンプルだからといって簡単とは限りません。
でも、どちらかを自分で選ぶことができるのです。
こう書きながらも、リアクションに飲み込まれそうになる時があります。
ふと、涙で目頭や喉が熱くなることがあります。嗚咽してしまうことがあります。
そういう時はじっとその気持ちを感じています。
「もし、あの時」や「自分なんて」という余計なことは考えずに
ただ、“悲しい気持ち”を感じています。
そして、その悲しい中に温かさやバーナビリティー、自分が広がるのを感じます。
リアクションの中にいる小さい自分を選ぶのではなく
もっと大きい部分の自分を感じています。
心はまるで、今流行のノロウィルスにかかったように消耗してしまいましたが、
身体はいたって元気モリモリです。
アントニオ猪木の
「元気があれば何でもできる」って本当だなって思います。
この言葉が、こんなに胸に染み入るなんて...
皆さん、元気があれば何でもできます。
今年も38日経過
Posted by 富元 祥子 at 11:55│Comments(0)
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